Zure Zure 日記

瑣末な日常を Zure た視線でやぶにらみ

ある出会い

中国某市の市民フェスティバルに、日本の某歌手が招かれました。

ちゃらちゃらしたタレントではない、音楽一筋で生きてきた筋金入りの人です。

で、この公演の手配一切をうちの会社で引き受けることになり、私がその担当になりました。



とかく、思ったようにコトが進まないのが中国ですが、何とか手配も完了し、例によって添乗員ということで私がご一緒します。

現地に着けば、主催者側との打ち合わせやコンサート会場の設営など、やることは山ほどあるわけで、当然中国側から通訳が出てくるものと思っていましたが、当時の私の上司が経費節約のために、



「日本から行きますから、通訳は不要です」



なんて、断っちまったようなんです(笑)

私はそれを現地に着いてから知りました(爆)



んで、否応も無しに通訳の真似事をする羽目になりました。

幸いなことに私自身、音楽が好きで(このサイトの Rocks も読んでネ)、北京の大学にいる時はその手の本も読んだりしてましたので、用語などに困るようなこともなく、まぁ何とかなりました。



コンサート初日。

その歌手 S さんとバックバンドのメンバーたちと一緒に会場入りします。

この時のバックバンドは、ギター、ベース、キーボード、ピアノ、ドラムスの 5 人編成でもともとはブルース系のバンドだそうです。



バンドのリハーサルが始まりました。

S さんはまだ楽屋ですので、この時のリハーサルはブルース系の曲で占められ、久しく生の音に接していなかった私は役得を思う存分味わったのでした。



リハーサル終了後、楽屋に戻ると見慣れない中国人が 5 ~ 6 人待っています。



「ん?」



この兄ちゃんたち、皆長髪で細身の G パンにブーツなんか履いちゃってます。



「あのー どちら様で…?」



待っていたかのようにその内の一人がしゃべり出しました。

地元某市のセミプロバンドのメンバーだそうで、日本のプロミュージシャンが来る、という噂を聞いたのでぜひ薫陶を受けたく訪ねてきた、と。



一応、私たちは某市から招かれた公賓であり、従ってコンサート会場もそれなりの警備というか、公安局員が何人か入り口にいたはずなのですが、どーやって中に入ってきたのか…

ま、まぁその辺はさておき、日本のバンドのメンバーたちにその旨を伝えました。



(ノ゚ο゚)ノ オオオォォォォ…



思わぬ珍客の来訪にメンバーたちは驚きつつも、喜んでお話ししましょう、と気さくに応じてくれました。



さっそく楽器ごとに話しが盛り上げるはずですが、そこは日本人と中国人。

お互いの言葉がわかりませんよね。



あちこちからお声がかかります。

その度に通訳するのですが、音楽家同士が話すことですから、日本語で言われたって意味がよくわかりません(爆)

四苦八苦しながら話していると、その内、それぞれが楽器を弾き始めました。

言葉よりも実際にやってみせて理解させようというわけですね。



よく言われることですが、国が違っても専門家同士の話しというのは不思議に伝わるものです。

何年か後、アメリカなどに企業訪問のツアーで添乗しても、日米の技術者同士が身振り手振りで話しをし、意志が伝わっていく場面が何度もありました。



日本のプロたちの演奏を食い入るように見つめる兄ちゃんたち。

自然発生した、草の根レベルでの相互交流であります。

小一時間もそうした時が続いたでしょうか。

最後にお互い握手をして別れました。

こうした 【作られた】 ものではない場に身を置くと、いろいろ辛いことはあるものの、この仕事についた、大げさに言えば喜びを感じたりします。



兄ちゃんの一人が、



「ところで、あんたは何?」



みたいに私に聞いてきます。



「え、え~っと… 添乗員っつうか、通訳見習いというか…」

「そっか。通訳してくれてありがとう。俺たちはここでライブやったりしてるから、もし時間があったら、あんただけでも来てくれよ」



と、店の名前と住所を記したメモをくれ、私にも握手を求めてきました。

うれしかったですね。

こーゆー時の中国人って、ほんとにフレンドリーです。

今から思えば、この兄ちゃん、ちょい太めでラウドネスの某 Vo にクリソツでしたが…(笑)



コンサートが始まりました。

私はステージ横から見ていましたが、客席前方にさっきの兄ちゃんたちがじっとステージを見つめているのを眼にしました。



当時の中国は、こうした場合のチケット配分は公的機関を通じて行われる場合がほとんどでしたので、この兄ちゃんたちのような浮き草稼業的な連中には、ほとんど入手できないと思うのですが、どーにかして手に入れたんでしょうね。

さっきも、まさかチケットを持っているなんて思わなかったものですから、何とかしてこの兄ちゃんたちにコンサートを見せてあげたい、なんて思っていたのですが、余計な心配だったようです。



結局、このツアーでは彼らの店に行くことはできませんでした。

後ろ髪引かれる思いで帰国したわけですが、まぁこの仕事を続けている限り、某市ってわりとポピュラーな街だし、いつかはまた行けるだろう、ぐらいに軽く考えてました。



んで、 3 ヶ月後にまた行くことになりました(笑)

夕食を取り、お客さんをホテルに案内。

部屋割りをして翌日のスケジュールを発表し、それから一部屋ずつ託送荷物は来ているか、電気や水まわりは大丈夫か、とまわっていきます。



最後に幹事さんに、



「すいません、ちょっと打ち合わせがありますので 1 、 2 時間ほど部屋を空けます」



と伝えると、



「なんだよぉ~ イイトコ遊びに行くんだろぉ? 俺も連れてってくれよぉ~」



違うっつうに。

まぁイイトコはイイトコだけどね(爆)



兄ちゃんからもらったメモを頼りに店を探します。

それらしいところが見つかりましたが、

「此房出賣(売家)」

の張り紙が。



あらまー (´・ω・`)



あたりをしばらくうろうろしてみましたが、やっぱりここのようです。

そこらのトッポイ(死語・笑)兄ちゃんに聞いてみました。

彼の言によると、しばらく前につぶれた、とのこと。



この話しを書くために、いつごろの添乗か、記録をひっくり返してみました。

1992 年のことでした。



1992 年というと、中国ハードロックの雄・唐朝が 1st アルバムを発売した年です。

まさしく中国洋楽(ん? 変な日本語だな…)の黎明期であったのかも知れませんが、こうした音楽はまだまだ偏見視されていたころです。

あの時の兄ちゃんたちも、どこで何をしているのやら… 



改革開放、そして経済成長の大きな流れの中で、中国人の価値観も多様化し、 【洋楽】 や 【 ROCK 】 にも、多くのバンドが台頭してきています。

もう一度、会いたいですね。

そして酒でも飲みながら彼ら中国人ミュージシャンの話に耳を傾けたいものです。