Zure Zure 日記

瑣末な日常を Zure た視線でやぶにらみ

当たり前過ぎること

いじめを苦にしての子供たちの自殺が後を絶ちません。

何と痛ましく、殺伐とした世の中になったものでしょう。

同じ年代の子供を持つ親として、決して無関心ではいられないわけで、言を左右して責任逃れに汲々とする学校関係者を見るたびに、自殺を選んでしまった子供たちの真情ともっとも悲しいかたちで愛児を失った親御さんのご無念さに胸が痛みます。



正直、オレが子供のころ 「いじめ」 に荷担したこともあったし、またいじめられたこともあった。

しかしいじめに荷担した時の後味の悪さと、いじめられた子の悲しそうな顔を見て、二度と荷担する気は起きなかったし、いじめれた時も悔しい思いと情けなさが交錯し、一晩中眠れなかった。



いじめって、ある種の集団的示威行為ですよネ。

いじめる子たちにとっては、あらゆるコトがきっかけになる。

その子の身体的、環境的特徴とか、あるいは 「遠足のバスでゲロ吐いた」 「学校でうん○したのがバレた」 とか。



「うん○がバレた」 って誰でも一度は経験あるかも知れない。

オレも小学校の時、バレて



「こたのヤツ、学校のトイレでうん○したんだゼェ~」



とかって言われ、



「んじゃぁ お前はうん○しないのかヨォ~…」



と言ったら、



「シネェヨ」



ソーナノ… ( ・ω・)



みたいな(笑)



まぁこんなんは 「いじめ」 じゃないんでしょうケド、最近は 「執拗」 かつ 「陰惨」 なものが多いように思われ。



昔、中国によく行ってたコロは、ちょっと親しくなった中国人から決まってこのように言われました。

「日本は経済的に豊かでいいネェ」

その度に、

「確かに経済的には豊かかも知れないケド、精神的には豊かとは言えない部分もたくさんありますヨ。学校でいじめられて子供が自殺する事件もあるんですヨ」

というと、一様に



「信じられない… 友だちは助け合うものでいじめるもんじゃない。日本はどうなってるんだ」



と真顔で言われました。



あまりと言えばあまりに直球ですが、でも本来、友だちとはそうした関係であったはずです。

現に中国人は 「友だち」 は生涯大切にするし、学生時代の友だちが仕事上でも様々な面で助けてくれたり、あるいは助けたりといった関係が続きます。



もっとも経済が豊かになれば、その分人心も荒廃してくるようで、おぼれている子供を尻目に 「助けたらいくら出す?」 などという輩もおり、それが大々的に報道されて大問題になったコトもありました。





それはさておき。

この前、ある人からこんな話を聞きました。

「ある子」 がクラスで 「いじめられてる」 そうなんですが、この 「ある子」



クラスの誰かの絵が入選し、教室に貼り出されて。

みんなは 「へぇ~ ウマいネェ」 とか 「上手じゃん」 とかって反応だったんですが、 「ある子」 の反応は



「これって何かのパクりじゃん」



と言ったそうです。



また、



「これとそっくりな絵を見たことある」



とも。



その絵を描いた本人にしてみれば、 「パクってなんかいない!」 となり、他の子たちも 「どこで見たの?」 と。

それに対し、この 「ある子」 は



「△◆○学校で見た」



「なんで、あんた△◆○学校なんて行ってんの?」

「別にいいじゃん」



そんなんらしい。



もちろん、これだけでいじめられるというコトもないんでしょうが、とにかく一事が万事、こういう調子らしいんですネ。



時には言わなくてもいいようなコトまで言ってしまう。

またその一言が鋭いんで、言われた方は悔しくても黙ってしまうらしく。



こういうコトが続くと、みんな自然と 「ある子」 のコトを避けるようになり、クラスでも孤立してしまう。

子供たちも大きくなるとそれぞれに個性が出てきますから、 「気が合う 合わない」 という感情も出てくるのは自然のことであり、それが友だち関係の発展にもつながってくるんでしょうが、この 「ある子」 にはそうした友だちも一人離れ、二人離れしていき、ついには 「一緒にお昼を食べよう」 とか 「一緒に帰ろう」 という子もいなくなったらしく。



「絵」 のことに関しては、伝わるたびにどんどん内容が変化していく 「伝言ゲーム」 のようなものかも知れないし、真実がどうだったのかはわかりません。

また 「余計な一言」 「鋭いつっこみ」 も、 「ある子」 にしてみれば、自分が思ったことをウソ偽りなく言った結果なのかも知れないので、これも 「ある子」 を責めるのは酷かも知れません。



しかしそんなことが続いたため、結果的にクラスから 「無視」 されることになり、 「ある子」 と、そのお母さんは 「クラス中からいじめられてる」 と感じたようです。



こんなご時世ですから、先生方もみなピリピリしており、まぁ教育者たるモノ、常に緊張感を持って教育の場に臨むのは喜ばしいことではあるのでしょうが、当然、このクラスの雰囲気にも察するモノがあったようです。



「ある子」 と、おかあさんからの相談もあり、何度かクラス会などでも問題提起をしたらしいのですが、他の子たちにしてみれば決して 「いじめている」 という認識があるワケではないので議論は平行線をたどるばかり。

こうなると双方ともに悲劇であり、悪循環が悪循環を呼ぶ、こともあるやも知れず。



「ひとくちに いじめ って言ってもいろんな構図があるみたいだね」



と、その話をオレにしてくれた人は言ってましたが、確かにその通りなんでしょうが、オレにはちょっと腑に落ちないこともあるんですネ。



「学校」 とは豊かな人生を送るための 「知性」 と、健全な社会生活を営むための 「品性」 を磨く場であると、オレは思うワケです。

しかしその前提となるのは、 「人格」 を形成し磨いていく 「家庭でのしつけ」 ではないかと。



「自分がされてイヤなことはしない」

「他人から親切にされたら必ず ありがとう と言う」



このふたつが大基本だと思うワケです。



この 「ある子」 の場合。

自分が描いた絵が入選し、それが教室に掲示された結果、 「パクりじゃん」 などと言われたらどんな気がするだろう。

少なくとも愉快じゃないと思うワケです。

物事をはっきり言う子であれば 「パクってなんかいない!」 と当然の反応をするでしょう。

まさに立場を変えてまったく同じ反応をしてるワケですよネ。



「パクりじゃん」 の一言は、自分が言われてもイヤな言葉だろうし、それをクチにしてしまうというのは、誇張した言い方をすれば 「他人の痛みがわからない」 と思われてしまうこともあるのかと。



「思ったことは貫き通せ」 とか 「自分を飾らず、感じたことをそのまま言いなさい」 というのは、ある場面においては真理ですが、ある場面では逆効果になることもあります。

こうした 「使い分け」 「 TPO 」 と言ってもいいのかな…

この線引きの基本は 「他人の痛みを理解する」 という、教育以前の 「しつけ」 の部分だと思うのです。

ここができていないと、自分の真意が伝わらず他人から誤解されたり、結局自分にとって 「損」 な状態になることもままあるのかも知れません。



かなり前。

新入社員が中途採用で入ってきたのですが、オレはこいつの入社には反対でした。

こいつ、前の会社の営業成績簿を持ち出して面接の時に見せたんですネ。

こいつの会社では、担当者が日々の売り上げを詳細に記載して上司の捺印をもらう、というスタイルだったようで、こいつにしてみればいかに自分が優れた営業マンであるかを実証するために持ち出してきたんでしょうが、本来、こうした成績簿は 「社外秘」 なんじゃないですかネ。



会社はこうした日々の売り上げを積み重ねて、 「決算報告書」 というかたちで株主総会で公表したり、あるいは 「取扱総額」 として自社の WEB サイトに出したりするんですが、この公表するために出されたものと、その根拠となる営業成績簿では性格がまったく違います。

だって、そこには取引先の名称とか金額とか、内容まで書いてあるんだモン。

これはどう見ても 「社外秘」 だろう…



しかし当時いたアホの上司がこいつの実績にホレ込み、採用しちゃったんですワ(笑)

「こんな社外秘の資料を持ち出してくるような非常識なヤツじゃないですか!」

「しかしこの成績はスゴい」

と、こっちでも平行線(笑)



入社後、同じ課の A 君と正面衝突。

こいつ、確かにクチのきき方も知らず、非常識な面もあり、体育会系の 「上下関係」 「礼儀」 を重視する A 君の激怒を買いまして(笑)



一応、彼らの上司であったオレ(笑)

「ったくもぉ~ ガキじゃねぇんだから、会社にンナ事持ち込むんじゃねぇヨ… ンナ事するヒマあったら仕事しろヨ、仕事…」

とかって思ったモンですが、そうは言いましても(笑)



この場合、こいつに非があるコトは明らかであり、一緒に昼飯喰いに行ったり、呑みに行ったりして、 「自分には絶対非がないと思ってはいけない。なんで A に激怒されたのか、もう一度冷静に考えることは必要ではないか。もし自分に悪かった点があれば虚心坦懐に A に謝れば、 A だって気はさっぱりした男なんで、必ずわかってくれる」 みたいなことを言ったんですよネ。



結局、そいつは入社後わずか数ヶ月でヤメちまいました(爆)

もうちょっとでオレの 「管理能力」 を問われるところでしたが(笑)、これ以上バカと関わることもなくなったので、ホッとしたことも確か(笑)

ちなみにこいつの入社を押したアホの上司ですが、コイツも去年、何を思ったのか会社ヤメていきました(爆)

おかげでだいぶ風通しがよくなったゼ(笑)





例によって話が脱線し、その脱線がまた長くなってしまいましたが(笑)



結局、オレが思うに…

如何によい教育を受け高い学歴があっても。

如何にスゴい会社でよい成績を勝ち得ても。

人としての 「基本」 がなければ、自分のやってきたことが正当に評価されないばかりか、曲解されることもあるのかと。

まぁ 「誰からも好かれるクラスの人気者だけど、いつもテストは 0 点」 みたいな、ひと昔前の少年マンガの主人公みたいになっても、それはそれで親としては困るんですけどネ(笑)





誤解のないようにくれぐれも強調しておきますが、私は 「いじめられる側にも問題がある」 などとは決して言っていません。

また今現在、いじめを受けている子供たちにも責任があるとか、家庭のしつけに問題がある、などという事もまったく考えていません。

いじめられるつらさに耐えきれず、自らの命を絶ってしまった子供たちの涙も枯れ果てた絶望と、これまで慈しんで育ててこられた親御さんの果てしない無念と断腸の思い。

子供を持つ親として、思いは同じです。



ただ 「いじめ」 の問題を解決するには、良識と常識をわきまえ、他人の痛みが理解できるような、理解できなくとも 「わかろう」 と努力するような、そんな気持ちを持った子に育てる事が、ひとつの解決の糸口にならないだろうかと思うのです。

そうした子は必ず周囲の友だちの、全員ではなくても一部であっても共感を呼ぶでしょうし、その子自身がいじめられれば周囲の子が助けてくれるかも知れません。

そうした友だち関係が少しずつ増えていくことは、その子の人生にとってかけがえのない宝となるでしょうし、また人生をより豊かなものにしてくれるはずです。



「友だちは助け合うもの」

この当たり前過ぎるほど当たり前のことが、 「そんなの当たり前じゃん。何言ってんの」 と簡単に言われるように。

そんな人間関係を子供たちには築いてほしいし、それがひいては社会の 「当たり前」 となるように。

祈るんじゃなくて、自分でできることはやろうと思い、また自分の子供たちにもそうやってる次第で。