Zure Zure 日記

瑣末な日常を Zure た視線でやぶにらみ

おじいちゃんのこと

オレの父方のおじいちゃん。

つまりオレの親父の親父。

オレが中学生の時に亡くなりましたが、それでも鮮やかに記憶に残っちょります。



先日、親父から電話がありまして。

「◎△◆と×▼○(←いずれもオレのイトコ)が、何だかじいさんのことに非常に興味を持ったらしい。来歴を知りたい、というので、オマエもその時は話しに来てくれないか」



オレのおじいちゃん。

孫のオレが言うのも何ですが、実におもしろい生涯を送った人で。



オレも子供の時におじいちゃんの来歴はちょこちょこ耳にしていたのですが、いずれも断片的であり、またおじいちゃん自身も孫(←オレのコト)に対して、自分が過去に何をしてきたか、なんてのはあまりしゃべらない人だったんで、そういう意味ではオレもおじいちゃんがどういう人であったのか、また若かりしコロにどういうコトをしてきたのか、やはり興味があるワケで。

オレの親父は 6 人兄弟の下から 2 番めであり、長男は戦死、また親父から上のおじさん、おばさんたちも物故し、残っているのは親父と親父の妹のみ。

そういうワケで親父も途切れ途切れの記憶から探り出してくるんで、もしこの機会を逃したらおじいちゃんの足跡は永遠にわからなくなってしまう。



そんなワケで、オレも及ばずながらも協力することにしたのですが…



え?

「お前の親父さんでさえ途切れ途切れの記憶なのに、お前が協力することなんてあるのか?」

はい。

実にもっともなご指摘で(笑)



オレのおじいちゃん。

若い時は 「満州」 にいたんですネ。

満州」 は、現在の中国東北部にあった、日本陸軍関東軍がでっち上げた傀儡国家です。

このコロの 「満州」 つまり 「中国」 のコトを、おじいちゃんはまだ子供だったオレをひざに乗せ、いろいろな話をしてくれたんですネ。

もっとも自分が何をした、というコトではなく、中国での暮らし、様々な友人たちの話、また中国の風俗とか食べ物とか…

おそらくこの時に、オレの中に 「中国」 が刷り込まれたのではないかと。



大学にも行かずに(行けずに?・笑)、中国語を勉強し、北京の大学に行って、中国関係の旅行の仕事をし…

という今に至るまでのことを考えると、おじいちゃん抜きでは今のオレは考えられず。

なので、こと 「中国でのおじいちゃん」 もしくはおじいちゃんが暮らしていた当時の中国の社会情勢とか、そんなコトになると、親父よりオレの方が詳しいワケで。



そんなワケで、オレが子供のコロに聞いた話とか歴史上の 「満州国」 の史実、そしておじいちゃんとは切っても切れない関係の 「ある人」 のことを調べたり、つなぎあわせているうちに、今まで漠然としていたモノが徐々にカタチになってきました。



いかに自分のブログとは言え、こういう非常にプライベートなことを書くのもどうかと思ったんですが、



「まぁいいや」



といつものように軽々に決断(笑)





1900 年(明治 33 年)
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「大沢豊次」 「しか」 夫妻の次男として東京都青梅市に誕生。

「大沢」 という姓だったんですネ。

いつ 「サカキバラ」 になったのかは、よくわかりません… ヾ(^^;ワカレヨ

「豊次」 さんは、山林売買に関わる疑獄事件に巻き込まれ投獄、獄死したそうです。

残された 「しか」 さんと、おじいちゃん兄弟は辛酸をなめる毎日であったようで。





少年期
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「植民地貿易語学校」 という学校でロシア語専攻。

この 「植民地貿易語学校」 ですが、どこかの大学の前身らしいのですが、オレの調べた範囲ではわかりませんでした。

父親を亡くし、大変な生活苦であったであろう家庭で、このような学校に行けたのかどうかはわかりませんが、とにかくロシア語を学び、ロシア革命前後の混沌としたロシアに渡ります。

その時の

「今よりゆかん 自由の大地 ロシアの国へ」

というおじいちゃんの詩の一節が今も残ってます。



ロマノフ王朝末期、絶対君主制からいきなり共産主義に移行した激動の中におじいちゃんはいたワケで、日本に帰ってからも

「家とか財産なんかは持つもんじゃない」

とよく言っていたそうです。

栄華を誇ったロマノフ王朝から一転、共産主義社会となり、家屋敷や莫大な財産などもことごとく没収された、時の貴族や資産家などを見ていたのでしょうから、こうした考えを持つのもわかるような気がします。





軍隊生活
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ロシアから帰国後、 20 才前後で軍隊に入ります。

配属は 「第一師団第 16 連隊第 5 中隊」

「第一師団」 と言えば、かなりのエリート師団であったらしいですが、なんでこんなところにどこのウマの骨かもわからんおじいちゃんが配属されたのか…



実家にはおじいちゃんの 「軍隊手牒」 が残されており、これは初めて見た。

出生から本籍地、そしてもちろん軍歴までコト細かに記載されており、茶色に変色した小さな手牒ですが、おじいちゃんの前半生を物語っていました。






数年間、師団勤務が続き、 1923 年(大正 12 年)の関東大震災のおりには千葉の震災対策戒厳司令部に行ってます。

これは 「柏市史」 にも記録が残っており、震災直後、流言飛語にあふれていた巷の治安維持にあたったようです。



翌年、満期除隊、同時に予備役編入

ちょっと計算が合わないような気もしますが、とにかく軍隊手牒にはそのように記載してありました。

二等兵から身を起こし、最後は騎兵軍曹に昇進。

4 年間の軍隊生活でこの昇進は早かったのか遅かったのか。

とにかくほとんど身寄りもなく、自分の力で生きていくためには軍隊に入るのが一番手っ取り早かったんでしょうが、最後の千葉での勤務の時。

もともと馬が好きであったおじいちゃんは、軍隊でも騎兵になるのですが、千葉県の習志野市には騎兵連隊の本部があったようです。

この騎兵連隊本部では、有名な 「おいおい事件」 という怪談があり、おじいちゃんも経験があるらしい。

この怪談を声色を使って話すおじいちゃんの声は今でも耳に残っており、子供心にもぞっとしたのを覚えてます。





満州
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軍隊除隊後、満州へ。

この経緯もはっきりとはわかりません。

恐らく親父よりも上の世代の人たちが存命であれば、わかったこともあるのでしょうが、当時まだ子供であったオレの親父にはさっぱりわからんようで。



そのころから 「頭山満」 や 「川島浪速」 といった国家主義者の大立て者、また満州浪人の親分的存在の人たちとの親交が始まったようです。

オレの実家に残されているおじいちゃんの数少ない写真にも、おじいちゃんと頭山満が一緒に写っていたりとか、親父の記憶では頭山満が家によく来たとか、そんなコトもあったようで。



渡満後、 「日満企業株式会社」 という満鉄系国策会社で働きます(一説には 「社長」)。

この 「日満企業株式会社」 という会社。

実体はよくわからないのですが、いろいろ調べたところ、どうやら満州での養蜂や農産物関連の商社的な会社であったようです。

そしてこの満州での生活と前後して、ウチの家の運命を大きく変えかねなかった人と出会います。





愛親覚羅憲原氏
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愛親覚羅とは、言うまでもなく中国最後の王朝であった清朝の家系。

おじいちゃんはどういう経緯からか、この愛親覚羅家の一員である 「憲原氏」 と知り合い、肝胆相照らす仲となり。



憲原氏の写真は実家にも数枚残っており、実に恰幅のいい堂々たる体躯の人です。





左が憲原氏。

右が若き日のおじいちゃん。

何があったのか、びりびりにやぶられてます。



この憲原氏。

早稲田大学に留学していたそうで、非常な日本通であったとか。

今回調べた中で唯一、憲原氏の足跡が見つかったのですが、ある僧侶の追悼会の共同発起人として名を連ねており、この僧侶を追悼する一文も上梓しています。

『野口日主上人を憶ひ/日本の武士道を語る・満州国陸軍少将 憲原』

が、それです。



野口日主上人とは浅草・某寺の住職で、頭山満や金子雪斎といった国粋主義者たちとも親交があったようです。

この上人を追悼する文章として、憲原氏が 『日本の武士道を語る』 という題名で書いているところを見ると、同系統のイデオロギーを持っていたと想像することができ、またおじいちゃん自身も頭山満らと親交があったことから、

頭山満=憲原氏=おじいちゃん

の図式には 「国家主義」 「国粋主義」 という共通のテーゼがあったのかも知れません。



この憲原氏は親父もはっきりと覚えており、それこそ毎週のように家に遊びに来たり、また当時あった満州国大使館におじいちゃんともども招待を受け、食事とか何とかの会とか、かんとかの会にお呼ばれしたとか。

会うたびにお菓子をくれたり、またお小遣いをくれたりと、幼かった親父の眼には 「やさしくてかっこいい満州の軍人さん」 というイメージであったのでしょう。



憲原氏からはさかんに一家をあげての満州移住を薦められたそうです。

満州国の貴族にするから、ぜひ一家でおいでなさい」

と決して生活が楽ではなかったのであろう我が家の窮状を見て薦めてくれたのかも知れませんが、おじいちゃん自身は非常に迷ったそうです。

しかしおじいちゃんの伴侶、つまりオレのおばあちゃんですが、 「それだけはやめてください」 と強く諫められ。

結局、一家で満州移住ということにはならなかったのですが、今から思えばコレは実に正しい選択であったと言わざるを得ず。

もしそうなっていたら、オレの親父などは確実に中国残留孤児となっていたことでしょう。

人間の運命なんてわからんもんです。



その後もおじいちゃんと憲原氏の親交は続き、憲原氏が来日のおりにはあまりの日本通故、暗殺の危険もあるとのコトで、船からの下船のおり、憲原氏にはおじいちゃんの和服を着せ、おじいちゃんは憲原氏の軍服を着て帽子を目深にかぶって、というコトもあったらしい。



実家に残された変色した数々の写真には、おじいちゃんと憲原氏の親交を物語る多くのシーンが残されています。





前列左:憲原氏

前列中:おじいちゃん

後列右:清朝最後の皇帝・溥儀の皇后であった婉容皇后の実弟である潤麒氏



ちなみにこの 「潤麒氏」 とも親交があったようで、実家には潤麒氏からおじいちゃんに宛てた年賀状が残ってます。





我が祖父ながら、当時のおじいちゃんはキリッとした顔つきで非常にかっこよく、 「なんでおじいちゃんの 1/100 も似なかったのかなぁ…(泣)」 とかって思い(笑)





愛親覚羅一族と憲原氏
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今回の一連の件で、愛親覚羅家の家系図を調べてみました。

歴史上、清朝最後の皇帝はラストエンペラー 「溥儀」 であり、清朝滅亡後も満州国初代皇帝として 「溥儀」 が即位するのですが、親父に言わせると 「憲原さんが皇帝になるはずだった」 と。

しかし前述のようにあまりに日本通であり、満州国の実体が関東軍の傀儡政権である以上、日本通の人間を皇帝にしては先行き問題がある、との理由で皇帝候補からはずされたとか。



それほどの人なのであれば、必ず家系図には載っているだろう。

そう思っていろいろと調べてみたのですが、載っていない。

相当な傍系まで載っている、 100 ページにも及ぶ家系図を調べたのですが、やはり載っていません。

「愛親覚羅家の一員」 とは 「語り」 だったのだろうか…

まさか(笑)



ここで、あるコトに思いつき。

愛親覚羅家の命名には 「同じ世代には必ず同じ一字を名前に入れる」 というルールがあります。

例えば清朝九代め皇帝・咸豊帝の世代には、共通して 「奕」 の字が名前に入っており、次の世代、第十代皇帝・同治帝の代には 「載」 の一文字が入ってます。

また最後の皇帝・溥儀の世代は 「溥」 の字。

実際、溥儀の実弟は 「溥傑」 。

となると、 「憲原」 という名前自体はなくても、 「憲」 という字を持つ世代はいるかもしれない…

探してみると、ありました。



実質的に清朝を築いた 「太宗・ホンタイジ」 の長男の系統がそれです。

この系統の第九代めにあたる 「粛親王」 の子供たちが 「憲」 の字を持つ世代でした。



親王の子供たちには 「東洋のマタハリ」 「男装の麗人」 として名を馳せた、あの 「川島芳子」 も名を連ねており、川島芳子が 1907 年生まれですから、この兄弟たちは 1900 年前後の出生と思われます。

おじいちゃんは 1900 年生まれであり、写真で見る限り、おじいちゃんと憲原氏はそんなに年の差はあったようには見えませんので、たぶん同世代。

ということは、 1900 年代初頭に生まれたのであろう粛親王の子供たちと同世代であり、憲原氏がこの系統である可能性が出てきまして。



では、なぜ傍系まで載っているこの膨大な家系図に名前が出てこないのか…?



「載っていない」 ではなく、 「載せられなかった」 のではないだろうか…?

親王と正妻との子供ではなく、例えば使用人に手を出してできた子供とか、若き日の過ちとか。

なので 「正統」 ではなく、従って家系図にも載せられない。

しかし 「我が子」 であることは事実なので、正妻の子たちと同様に 「憲」 の字を入れた名前をつけられた。

こんな風に想像したワケですネ。



何の根拠もない、ただの 「想像」 なんですが、ただそんなに的はずれでもないように思えるんですヨ。

親王の子」 とはいえ、いわゆる 「私生児」 では、けっこうツラい思いもしたのかも知れません。

そのあたりが、早く父親を亡くして母と兄と苦労しなければならなかったおじいちゃんと意気投合した、ひとつの要因にもなったのではないか。

そんな風にも思ったんですネ。





憲原氏 その後
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1945 年。

日本の敗戦とともに歴史上から姿を消した満州国

憲原氏の消息もそこからぷっつりと切れ、まったくわからなくなります。



が、思わぬところから憲原氏の消息がわかったのは、オレが旅行会社で仕事を始め、日本と中国を行ったり来たりしていたころでした。

以前、オレが勤めていた旅行会社の社長は中国側との人脈も広く、その関係で愛親覚羅の血を受け継ぐある書道家の個展を日本で開くことになりました。



社長のカバン持ちでオレも北京にお供した時。

その書道家・愛親覚羅毓[山詹](あいしんかくら・いくせん)氏と会いました。

名前の 「せん」 の字は、 「山へん」 に 「詹」 という字なのですが、日本にはない漢字ですので [山詹] と表記しました。



毓[山詹]氏は、ホンタイジから連綿と続く皇帝直系の人で、第八代皇帝・道光帝の息子 「恭親王」 の子孫です。

そういう意味ではラストエンペラー溥儀よりも、皇帝の血は濃いことになります(溥儀は恭親王の弟である醇親王の子であったが、子供のいない光緒帝の弟・載豊に養子縁組し、無理矢理光緒帝の次の世代とされたため)。



打ち合わせの合間。

毓[山詹]氏に憲原氏のことを聞いてみました。



「なんで憲原のことを知っているのか」



と驚きの眼でオレを見る毓[山詹]氏。

もしかしてビンゴ? (笑)



おじいちゃんのことを話しますと、 「そうだったのか」 と感慨深げでした。

毓[山詹]氏は、自分よりも 1 ~ 2 世代上の人として憲原氏のことをよく知っていました。

その当時、憲原氏はすでに物故していましたが満州国崩壊の後、国民党軍と共産党軍の内戦を経て、今の中国成立後も反右派闘争や文化大革命と続いた大政乱の中にも生き延びたそうですが、最後は精神に障害を来たし、末路は決して幸せなものではなかった、と。



そして憲原氏の息子(孫? この辺は記憶が曖昧)が、今なお北京市内で存命であることを知らされ、その方の住所まで教えてくださいました。

まさかこんなことになるとは夢にも思わず、オレは帰国後すぐに親父のトコに飛んでいきました。

親父もかなり驚いた様子ですが、 「もし手紙を書くなら、オレが翻訳して送るよ」 という申し出にも、何か期するところがあったのでしょう。

「それはやめておこう」

と。



その後、住所のメモもどこかに行ってしまい、結局その方と連絡を取ることはできませんでしたが、憲原氏ゆかりの人物が存命であることがわかっただけでも、大きな収穫であったと言えそうです。



後に毓[山詹]氏とオレのおじいちゃんの関係を知った社長から、毓[山詹]氏真筆の書をいただきました。

杜甫と並ぶ唐代の大詩人・李白の書いた 「贈汪倫」 という漢詩です。



李白乗舟将欲行
忽聞岸上踏歌声
桃花潭水深千尺
不及汪倫送我情

李白舟に乗りて将に行かんと欲す
忽ち聞く岸上踏歌の声
桃花潭水深さ千尺(に至るも)
汪倫が我を送るの情に及ばず

(訳責・こた だから、いいかげん・笑)



李白が自分を非常に歓待してくれた汪倫という人との別れの際に詠んだ漢詩ですが、でもこの書。

「忽聞岸上踏歌声」 の部分の 「上」 が抜けてるんですよネ(笑)

どう読んでも一文字足らないので、おっかしぃナァ… (?_?) と思ってたんですが、原本を読んでわかった。



「毓[山詹]先生、書き損ねて一文字抜けてんだよナ、コレ… まぁいいや… あいつにあげちゃえ」



とかって社長に思われたんですかネ(爆)



しかし、これは我が家での唯一最高の 「お宝」 として、せせこましい玄関に飾らせていただいています(笑)





去年 10 月。

家族で北京に行った時に、毓[山詹]氏も訪ねてみようかと、ふと思いましたが、オレなどが気軽に会えるような相手ではなく、また親父も一言もそのことには触れませんでしたので、実際会うようなことはしませんでした。





結局
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憲原氏はいかに親父が 「本来は憲原さんが皇帝になるはずだった」 と主張しても、家系図にすら出ていない以上、傍系も傍系であったと考えざるを得ず、そうした人が皇帝になる可能性も低かったのではないか。



憲原氏が子供のコロの親父に対して

「ほんとうはおじさんが満州国に皇帝になるはずだったんだぞ。ワァーッハッハッハ!」

みたいな罪のないジョーク的発言を、子供であった親父が真に受けてしまったのか。



あるいは子供のコロの思い出である憲原氏が、どんどん親父の中で美化されたのか、まぁそんなコトを追求するつもりも全然ないし、どうでもいいんですけどネ。



今まで調べたことから勝手に想像するに、憲原氏は粛親王の実の子供である可能性が高く、家系図には載せられない 「私生児」 的存在ではあったが早稲田大学に留学するなど 「親王の子息」 として一定の扱いはされていた。

また国家主義的思想を持っていた僧侶の追悼会発起人ともなり 「日本の武士道を語る」 という追悼文を上梓していることから、かなりの国家主義者、またある種のナショナリズムに傾倒していたと思われます。

なお、この発起人や追悼文には 「満州国陸軍少将」 という肩書きがあるので、日本の傀儡政権であった満州国の軍隊の中枢におり、また相当な日本通であったことからも関東軍満州にしかけた様々な欺瞞は看破しており、それがきっかけとなったのか、あるいはそれが故に国家主義者的な思想を持つに至った、と考えることもできそうです。



またおじいちゃんですが、その前半生には不明な点がたくさんあるのですが、辛酸をなめた少年期から自主独立の気風を養い、ロシアと満州、日本を股にかけた。

と言えば聞こえはいいですが(笑)、恐らくは満州国あるいは関東軍の 「裏役」 程度だったのではないか。

最初はもちろんただの使い走りに過ぎなかったのでしょうが、傍系とは言え、憲原氏のような皇帝ゆかりの人と親交を持ち、その後の氏との関係や頭山満、川島浪速などとの親交も考えると、ある程度の実力はあったものかと。

もっともそれも表には出ない 「隠然とした」 力だったのでしょうが。



しかしこうしておじいちゃんの前半生をちょこっと追って見ると、波瀾万丈の青春時代、実に激動の人生であったと言えそうです。

はたちにもならない、少年と大人の中間ぐらいの男が単身ロシアに渡り、満州に行き、そこでひとかたの働きをしたワケですから、そういう意味では 「スゴイ」 人であったかと。



おじいちゃんは 40 代前ぐらいから足を患い、杖なしでは歩行もできない状態でした。

晩年は、気はしっかりしてるのに言うことを聞かなくなった自分の身体が情けなかったのか、おばあちゃんにもずいぶんつらくあたったこともありましたが、オレにはホントに優しい、大好きなおじいちゃんだった。



息を引き取る直前。

さんざんつらくあたられたおばあちゃんが 「あたしゃ何としても元気になってほしいよ」 とさめざめと泣き、子供心にも夫婦の絆というか、一緒に苦労を重ねてきた同士の愛情というものを感じ、万感胸に迫るものがあり。

最後は入院先の病院のベッドで亡くなりましたが、自分の子供や孫たちに囲まれ看取られて息を引き取ったので、幸せな死に方であったと言えるかも知れません。



死ぬ前に何を思ったのか。

走馬燈のようにこれまでのシーンが駆けめぐったんだろうか。

辛かった少年時代や猛き心で生きたロシア、満州時代の青春か。

それとも敗戦後、失意の中にありながらも家族を喰わせるためにおばあちゃんと懸命に働いたことか。



あの世、ってホントにあるんですかネ。

オレが死んだらおじいちゃんに会えるのかなぁ…

もし会えるのなら、おじいちゃんの満州時代の話を酒でも呑みながら聞いてみたいですネ。

一晩や二晩では語り尽くせないだろうけど、まぁいいや。

死んじゃえば会社行くこともないし。

2 時間半の通勤もないから、徹夜で酒呑んだっていいんだもんネ(爆)